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お迎えが来ました

三月を振り返るとお寺の行事や法務で門徒の皆様とお会いする機会が多くあった。寺子屋英語教室、永代経法要、子供会(六年生を送る会・新一年生を迎える会)、10日間にわたる彼岸会檀家参りに法要と。

お年寄りから小さなお子さんまで法縁に恵まれる機会をいただいた。3月のこの機会に皆さんに考えてもらおうとアンケート調査を行った。その中で「いよいよ・・・」の後に続く言葉を述べて下さいと。

子供達に聞くと、「いよいよ春が来た!」「いよいよ卒業式だ!」「いよいよ試験だ!」など。ご両親もいらしたので尋ねてみると、「今は自分のことより子供の成長を考えているので、いよいよと言っても子供のことしか浮かばないかなあ」とか、「いよいよ私の出番だ」「いよいよ頑張らないといけない」など自身に関することも多かった。私自身も自分のことや家族のことを思い浮かべるかなと。では、お爺さんやお婆さんがたはどう思っているのか興味が湧いた。高齢でも80歳代、90歳代の方に伺ってみると、淨願寺の門徒さんは全員「いよいよお迎えが来た」と言われた。「お迎えが来ました」という言葉には自分が死んでいくということを自覚し始めているということが読み取れる。人生いろいろご苦労なされた経験もおありでしょうが、「死の自覚」をするのは年を重ねてきた証拠だろう。

そして尋ねてみた。「ここに集われるお方は、死んでいくことを考えている(自覚)のですね」と問うと、「いや、私たちは死を見つめて今日の1日を大切に生きているのです。死んで行くのに生きているのではないです」と。死を見つめて生を生きると! 若い人はその境地まで至らないことが多い。生にしがみついて生きていくことに必死である。逆に仏教は死を通して生を語る(無常)。

続いて尋ねてみた。「死んだらどうなりますか?」と。「死んだらお浄土へ帰っていくのです(帰命)」。「では、お浄土で何をするのですか?」と突っ込んで聞いてみると、「お浄土で阿弥陀仏のもとで修行して残された者を救いに上がるのです。」と。なんと心強いか! ありがたいお導きである。このような先達がいらっしゃると残されたものは安心して修行に励める。

昨年、前坊守(80歳)が臨死体験した時にこう言われたことを思い出す。「今まで見送って行った門徒さま方が一筋の光から降りてこられ、私を迎えに来られた」と。皆様が仏となって我々を迎えに来られる。我々残された者も先達に恥じぬように修行を重ねて命ある限り精進したいものである。

親鸞は、生きているうちに仏となるべき身に定まった方である。菩薩行を実践された方だ。死を待たずして今、そしてここ(現生)でその境地を信心体験していくことが大切であるとおっしゃる。あとは何の不足もない。死を待たずして今おまかせする以外に何もないと。そしていよいよ命尽き、お迎えが来るその時まで精一杯生きる!   

 合掌、

お迎え

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