お声を掛けてあげて下さい
先日、がんで3年半に及ぶ闘病生活を送られた方のお葬儀を務めさせていただいた。無事お見送りもでき、翌日ご主人様がお寺に来られて話をしてくださった。奥様がお亡くなりになられてから泣かれることはなかったのであるが、最後に顔を見てのお別れの時に涙された。その時のことを話してくださった。「嫁は、息をひきとる前まで息子(高校一年生)のことを心配していた。」と。そして、棺に納められている奥様に花を添えられて声を(心の中で)掛けてあげたと。「今までありがとうやで。仏さんとこへ往っても僕らのこと見守っといてな」と心の中で言われたそうだ。
人が亡くなる時に、そして亡くなった後に声を掛けてあげること。それは、仏教で言うところの臨終勤行(枕経)である。今では、臨終に(亡くなる前に)お坊さんを呼んで最後に仏様(阿弥陀仏や釈迦牟尼仏)にお礼を言っていくことをしなくなった。ほとんどが死後にお坊さんを呼んでお参りをするようになったのである。チベット仏教では、臨終勤行を死ぬ前から49日までお勤めをする。お祈りをするのである。お経を聴かせるのである。
一昨年母親が心肺停止した時には、私は母親の手を握りながらお経を称えていたのを思い出す。そして、母が息を吹き返したときに、「綺麗なお経の声がずーっと聞こえていた。」と言ったのを思い出す。
おかやま在宅クリニックの医院長である岡山容子先生にお話を伺うと、「亡くなった後も数分くらいは大脳は音を認識している可能性がある」とご家族に説明されるそうだ。そして先生は「呼吸は止まったり、再開したりを繰り返します。耳も聞こえているかもしれない。生の終わりはあいまいなものです。」と。「こうしたあいまいさを実感しながら、(息を引き取っていく人の)旅立ちを見守ることで、(残された者)のお気持ちはいくらか和らげれる」そうだ。「… 別れはつらいものです。しかし、いきなり機械のスイッチを切るようにプツリと生が終わるわけではない。ゆっくりと天に帰るのを見送るかのごとく生から死へと移行するということは、いのちの断絶ではなく、肉体が役目を終えても、心が残っているようなことを実感させてくれ、別れのつらさをつらいだけではないものにしてくれるようです。」とお話される。
私は、まだ皆さんの前に亡き人がいる限り、「できるだけ声を掛けてあげて下さい」とお願いする。岡山先生もおっしゃるように、今、ここで、「死」とは言え、聞いておられるかもしれない亡き人に「ありがとう。ごめんね。これからも見守っていてね。」という言葉が、残された者の心の中にも響くのである。合掌、
PS. 欧米では死後も大脳だけはまだすぐには死なないということと、耳は聞こえているということの研究が進められている。蘇生した人に聞くと「声は聞こえていた」という回答が多いことに驚かされる。これは、ショートフィルム(英語)ではあるが参考までに観ていただきたい。